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年頭所感~「一国二制度」 

謹賀新年


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*11月末、根府川付近にて


明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。


2011年の年頭所感はある物語を書いてみることにしたいと思います。





「一国二制度」


■201X年、日本のプレゼンスは大きく低下


201X年、日本では相変わらずデフレが継続していた。また、少子化と団塊の世代の大量退職の影響により労働人口が急減していた。国際競争力も著しく低下、自動車生産は遂に中国に抜かれることとなり、日本のメーカーお家芸であったガラパゴス製品も遂に国内市場で受け入れられなくなった。そのような経緯から「モノづくり日本」という神話も崩壊していた。モノづくりに傾斜していた反動からITなどのイノベーション産業も育っていない。アジアの金融センター競争も香港、上海、シンガポールから完全に引き離されており、かつて世界の三極市場といわれた東京市場のプレゼンスは大幅に低下、極東のローカル市場に成り果てていた。外為市場では円の取引量よりも改革が進んだ人民元の取引量が上回っており、人民元を取り扱えない金融機関は国際金融市場から取り残されていた。


一方、中国は発展を続けていた。上海や深センの一人当たりのGDPは3万5000ドルを超え、日本(4万ドル)を抜く勢いであった。労働人口はピークを迎えているものの、依然として高成長率は維持しており、海外からの投資資金も大きく集めていた。国内インフラの整備も進み、北京・上海間に時速475キロで走行する高速鉄道が開通しており、人の往来も活発となった。2011年ころの不動産バブルは一旦調整局面を迎えたものの、その後の当局の迅速な対応により不動産価格は落ち着いていった。中国の一人当たりPPP(購買力)も大きく上昇、消費者の高級志向が強まった。


高級志向からリゾートブームが起きていた。海南は既に大衆化しており、富裕層の人気がやや落ちていた。太平洋ではハワイやサイパンなども人気があったが、中国からはやや時間が掛かること(成田+3時間)から敬遠する向きも多かった。旅行会社などは中国に近く(上海など長江デルタからは海南よりも近い)、リゾート地としてのリソースが豊富である沖縄に注目していた。しかし、沖縄の玄関口である那覇空港は滑走路が1本、さらに軍民共同空港であったため発着枠に限界(年間発着回数は関西国際空港並み)があり、国際線の利用はほとんどなされていなかった。2007年時点では国内線が14,639,704人に対して国際線は296,232人、2010年時点、中国本土からの直行便は中国東方航空(日本航空がコードシェア)の上海線のみで、週二回の運行となっている。


■転機~那覇空港第2滑走路増設


沖縄は依然として米軍基地問題を抱えていた。朝鮮問題は相変わらず北朝鮮の瀬戸際外交が続き、長距離ミサイルの増備問題や核問題などが周辺国の懸念となっていた。このことから米軍では沖縄を東アジア戦略の最前線との位置付けを強くしていた。沖縄県民の抵抗も大きかったが、同時に基地依存の経済となっていた。日本の不況が長期化し、リソースは豊富であっても観光が沖縄経済を盛り上げるには至っていない。このことから全国の失業率が5.5%に対して沖縄は8%に達していた。有効求人倍率は0.3倍台を切っている状態が恒常化しており、雇用不安が強まっていた。


・都道府県別失業率(2010年7-9月期/出所:総務省「労働力調査」)


完全失業率 20110101



転機は訪れた。2008年1月25日に国土交通省は那覇空港の滑走路増設の方針を固めており、環境問題などを抱えながらも着実に工事が進み、また工法の改良から当初2010年代後半といわれていた開業が早まった。そして発着枠は倍増した。このチャンスを中国旅行業界が見逃すはずはなく、また沖縄県の売り込みも奏功し、中国の航空会社からの発着枠の引き合いが強く、中国の航空業界では沖縄争奪戦が繰り広げられていた。中国大手キャリアの中国東方航空は上海から、南方航空は広州から、エアチャイナは北京から、キャセイパシフィックは香港から1日数便の設定が行われ、エアバスA380モノクラスで800人輸送体制を実現したローコストキャリア(LCC)の乗り入れも行われることとなった。旅行会社は沖縄の高い観光リソースからツアーパッケージを組んだ。僅か2時間のフライトが受け入れられたことから、上海のエクゼクティブ層のニーズも強くビジネスジェットの設定も行われた。特ににエクゼクティブ層については、週末は沖縄でゴルフを楽しむ、こんなライフスタイルがブームとなった。国際線の利用者も滑走路増設により大幅増加、利用客は500万人を突破した。


沖縄経済は息を吹き返した。中国エクゼクティブ層中心に、これまでデフレが続いていたため割安に放置されていた沖縄に別荘を構える動きも広がった。2009年の観光収入は3778億3200万円(沖縄県観光企画課)であったが、201X年は7000億円程度まで拡大した。観光産業の復活により失業率は低下した。さらに、中国人の別荘取得需要により那覇市内の地価が僅かながらに上昇に転じたのだ。


・那覇市の商業地、住宅地の地価(基準地価・出所:沖縄県)


公示地価 那覇 20110101



■沖縄モデル


一方で、日本経済は相変わらずの低迷が続いていた。しかし、沖縄経済が復調しているということは、本土にとってもショックを与えた。特に地価が上昇に転じていたのは大きな衝撃であった。これまで日本経済は慢性のデフレ状態であり、2010年に日銀がデフレ脱却を目指して「包括緩和」を打ち出し、J-REITの買い入れを行って資産価格にアプローチする方法が取られたが、効果はあまり出なかった。国際商品市場の一時的な上昇によってCPIがプラスに振れる場面こそあったが、それは日銀にとって政策を転換するものではなく、相変わらず国内のデフレギャップは開いたままであった。地価も下げ止まり感が出ていたものの、それでもなお上昇には程遠いというレベルであった。


201X年の政治は2010年代序盤に政局が大きく混乱する中で、若いリーダーが台頭していた。そして大泉Jr政権が発足した。大泉政権には経済問題など様々な課題が山積しており、沖縄もそのうちの一つだった。依然として沖縄の基地問題は大きな課題であった。しかし、沖縄全体として考えてみたとき、観光産業だけでは沖縄が抱える諸問題を解決できるものではないものの、基地依存の経済から脱却できるのではないかという小さな自信も出来ていたことは確かであった。それも外貨流入というモデルも出来上がっていたのだ。その結果、沖縄はデフレから脱却しつつあった。


そして沖縄モデルを構築し、日本経済の低迷脱却のパイロットケースにすること、これが若きリーダーが秘めていた構想だった。そこで、特命で沖縄モデル編成チームを作成し、沖縄の経済発展に必要なことについて若手有識者中心に自由闊達な論議がなされた。そのうちの一人で米系投資銀行の香港支店に勤務していた若林(仮名)が、沖縄にも香港のような経済特区を導入することを提案した。その経済特区の目玉は以下のようなものであった。


・オフショア制度
・民間への通貨発行権の付与
・投資移民の受け入れ
・本土にある規制の大幅撤廃



オフショア制度の目玉は、法人税率10%、VAT(消費税)の撤廃、本土よりも割安な金融取引税の導入であった。また自由な金融取引を促進させるために日銀のような中央銀行を撤廃、決済機構のみを設けシステミックリスクを緩和しながら、通貨発行権は民間に委ねることも提案された。さらに投資移民の受け入れも提案された。香港の2000年代の成功は中国本土の富裕層を中心として投資移民が自由を求めて大量流入したことが大きな要因だった。このようなことから沖縄に富裕層を呼び込むために投資移民の受け入れも提案された。投資移民の要件は沖縄の不動産、及び日本の政府・自治体及び企業が発行する有価証券或いはその他金融資産に対する投資額が5000万円を超える者に対して居住権を与え、且つその投資期間が満7年となった者に対しては永住権を給付することである。さらに、沖縄出身の澤田(仮名)が、基地問題は沖縄の民意が反映されない中央政府間の話し合いではなく、沖縄と米国での対話によって解決すべしとの議論を展開した。そのためにはある程度高度な自治権を与えても良いのではないかとの意見も出された。


当然このような提案は与党内でもコンセンサスがまとまらなかった。タックスヘイブンについては国際的な規制が強まる中で反発も覚悟しなければならなかった。高度な自治権付与については官僚からの抵抗も激しかった。しかし、大泉政権にとっては沖縄問題と日本経済の失地回復は至上命題であった。激しい抵抗に合う中で沖縄高度経済特区基本法案及び沖縄特別行政区基本法案が国会に上程された。しかし与野党の反発にあい、与党造反組によって廃案に追い込まれた。


大泉首相は解散総選挙によって民意にこの案を訴えた。「沖縄革命なくして日本の明日はない」と。


■日本を変えた総選挙


選挙戦は激化した。これまでの左右の対立を超え、日本のあり方、今後の日本の立ち位置について国内世論も二分した。金融資本主義に否定的な論調、移民による社会的負担増大に対する反対論など、様々な異論が出された。基地問題は外交であり、沖縄に高度な自治権を付与することは外交の放棄を意味し、沖縄の独立が国家主権の放棄につながるとする反対論も出された。さらに仮に沖縄の決定によって米軍が撤退せざるを得なくなったとき、日本の軍事的負担が大きくなるとの主張などあり、国民世論は極めて激しく揺れ動いた。しかし、バブル崩壊から2X年、国内経済は疲弊しており、ある種の劇薬が必要であるということも国民世論には強かった。


国民世論の対立は激化していくこととなった。ネット上にはテロに関する犯行予告が公表され、選挙活動のみならず国民生活を不安に陥れる展開となった。次第に都市部では自衛隊も巻き込んだ警備体制が敷かれることとなった。テロ予告以降地下鉄では連日異臭騒ぎ、与党候補の選挙事務所に街宣車が突っ込んでいったり、閣僚の邸宅に時限発火装置が投げ込まれるなど、選挙戦はまさに命がけであった。選挙戦終盤は一部反対派のデモ隊が暴動を起こす騒ぎなど発生し、異常事態となった。在京駐在員などは本国から退避命令が出され、各国は選挙に向けて日本への渡航に対し注意喚起をするなどした。沖縄でも本土同様反対と賛成が入り乱れることになったが、本土とはやや趣を異にしていた。基地問題の解決として米国との直接交渉が出来る高度な自治権付与は県民にとって魅力的なものではあった。


そして大泉首相が選挙遊説中に何者かに襲撃され、負傷した。それでも「沖縄革命なくして日本の明日はない」と声高に訴えた。


残暑厳しい中の201X年8月25日、厳戒態勢の中で総選挙が行われた。


■「沖縄革命」


厳戒態勢が敷かれる中、第4X回総選挙の投票が行われた。当日は大きな混乱もなく、有権者は粛々と投票を済ませた。結果、与党の勝利に終わった。国民は劇薬を飲むことを決断した。


そして201X年9月10日、沖縄高度経済特区基本法及び沖縄特別行政区基本法が一部修正の上賛成多数で可決成立した。外交については基地問題に対する米国の交渉権付与に限るなど修正はあったものの、概ね「沖縄モデル」の趣旨に沿った形となった。そして沖縄県が廃止され、沖縄特別行政府が設置、沖縄通貨として沖縄ドルが導入された。沖縄ドルは国内3メガバンクと英銀1社、さらに電子マネーを手がける鉄道会社が発券銀行登録を行った。発券に当たっては当面沖縄特別行政府に設置された金融監督局に一定量の円貨を収めることで通貨の発行を許可するものとした(暫定的な円ペッグ)。金融監督局の主な業務は決済機構及び暫定的なペッグの維持であり、金融政策は行わない。マネタリーベースの増減は民間の需要に委ねられることとなった。さらに202X年に円ペッグの段階的廃止が決められており、最終的に通貨発行は完全に民間負債に委ねられることになる。金本位制でも管理通貨制度でもない、世界で初めて自由通貨制度が始まることになる。


さらにオフショア制度も導入され、有利な税制から金融取引が活発となった。沖縄取引所(OKE)が設立され、本土株、沖縄株、中国本土株の取引が開始された。また上海から近距離であるという地理的優位を生かし、人民元オフショア市場も整備された。法人税が10%であることから、本土企業や香港企業の本社機能を沖縄に移す動きも活発し、日本・中国・台湾との距離的な優位性から貿易も活発化した。投資移民の受け入れも始まり、中国本土・特に上海の富裕層を中心に移住が始まった。その後沖縄の地理的・金融取引的な優位性に注目した投資家の移住も起こり、浦添にヘッジファンドを構える著名投資家も現れた。不動産投機熱が今後ヒートアップしていくことになるが、それは本土の財務省ではなく、沖縄特別行政府に委ねられる。


・沖縄の地理(Google Earth)


那覇


沖縄革命はその後本土でも大きな刺激を与えることとなった。債務が膨大なゆえ税制緩和は難しいものの、沖縄モデルの成功を待って様々な改革論議に火がつくこととなった。沖縄に学べ、ということが本土のスローガンとなった。バブル崩壊から2X年、まだまだデフレが続き、不況の状態が続いていたものの、次第に閉塞感からは解放されていくこととなった。




この物語は近未来の日本を描いた個人的な妄想であり、フィクションかもしれませんし、ノンフィクションかもしれません。


【追記】参考
橘玲 公式サイト
橘氏の主張とは共通する部分が多いが、違いは橘氏が「ケイマン型」を志向しているのに対して、本ブログでは「香港・シンガポール型」を志向している。すなわち金融取引の中心地としての沖縄であり、アジアの金融センターを目指すという意味である。従って、ケイマンやリヒテンシュタインのような「単なるオフショア」というものではなく、貿易や一般企業のヘッドオフィス機能まで兼ね備えた「東アジアの中心地に存在している都市国家」を目指すというものである。ライバルは東京であり、香港であり、上海であり、シンガポールである。


Rails で行こう!:日本に「シンガポール」を作ろう
本エントリはこちらのイメージの方に近かったか。日本の中に香港を作ればよい、ということ。シンガポールでもよいが官僚制が強いので積極的不介入である香港の方がよいのかもしれない。


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この記事に対するコメント

元々沖縄人は本土の人間とは血が違う
彼らなら自治権を得やすいだろうし
通貨発行の自由化とか、新年早々夢が広がりますね

東京湾人工島も面白い
http://d.hatena.ne.jp/elm200/20100320/1269084873

しにすぎ #mQop/nM. | URL
2011/01/01 23:08 * 編集 *

しにすぎさん

コメントありがとうございます

東京湾人工島の件、読ませていただきました。

香港がイギリス領から中国に返還されたとき、あまりいいイメージを持っていなかったと思います。

しかし、2000年代に香港が飛躍を遂げたのは、本文中にもありますが、

・オフショア制度
・民間への通貨発行権の付与
・投資移民の受け入れ
・本土にある規制の大幅撤廃

この4つ及び高度な自治権を満たしていたからだと思います。投資移民制度は意外と見落としやすいのですけれども、羅湖の深セン側(深セン駅からイミグレに向かう途中)ではひたすら投資移民の手続き代行業者の看板があるのです。こうしてマネーを引っ張ってきているんだなあ、と思ったときに大きく納得したのです。

沖縄は世界の一大経済エリアである上海を中心とした長江デルタにものすごく近いところにあるのです。このことから香港を作る、というのであれば最適なところかもしれません。

祇園 #- | URL
2011/01/01 23:34 * 編集 *

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